闘病。

闘病

病と闘う。

闘病と聞くと身体の痛みや苦しみに耐えて、思うように身体を動かせなくて、栄養が口から採れなくて、沢山のチューブに繋がれて、寝たきりで、排泄もままならなくて、毎晩辛くて眠れず、毎日薬の副作用で苦しみ、いつも死と隣り合わせで精神的苦痛も激しく、いつも誰かに面倒を診てもらわなくては日々の生活が成り立たない。そのようなイメージがある。

僕は濾胞性リンパ腫という病気を抱えている。痛み、苦しみ、辛さなど、この病気の症状は全くない。自覚症状がないのだからキツネにつままれたような夢のようというか、えー?本当なの?って・・・ただ、血液検査の結果やCT,MRIの画像から「あなたは確かに悪性リンパ腫ですよ」と宣告されたのだから僕はリンパ腫なんだと認めざるを得ない。

病気の流れ。

2015偶然病気が見つかる。1回目の化学療法。2年ほど前から発病していたらしい。

20162回目の化学療法(薬は強くなる)。そして自家移植。

2017自家移植した造血幹細胞が血液を作らない。輸血の日々。いよいよ同種移植か?という直前で我が造血幹細胞は血液を作り出した。それ以後寛解状態が続き、

20215月にsIL-2R数値が急に上がり7月に3回目の化学療法。

20221月、化学療法8クール終えて経過観察中。

そんな流れなのだが、普通は先ず身体に痛みなどの症状があって病院に行って検査して何なにの病気ですと病名を告げられて自分は何なにの病気なのだと認める。

僕の場合は自覚症状、痛みや苦しみがないのだから不思議な感じなんだけど、でも精神的プレッシャーは常に付きまとっていている。それが僕の闘病生活だ。

プレッシャー。

日常の精神的プレッシャーとはなんだろう?

いつか来る死の恐怖?痛みや苦しみの恐怖?やりたい事ができなくなる恐怖?食事や排泄や睡眠が自力でできなくなる恐怖?家族と会えなくなる恐怖?好きな人と会えなくなる恐怖?朝日を拝めない恐怖?風を感じられない恐怖?星を眺められない恐怖?楽しめない恐怖?哀しめない恐怖?泣けない恐怖?怒れない恐怖?憐れみ慈しみできない恐怖?誰かと共有共感できない恐怖?何より自分を愛せない恐怖?

恐怖を心配、不安、苦しみに置き換えてもいい。

修行。

生きていれば「老、病、死」の苦しみはついてまわる。逃れられない。だとすれば苦しみを学びのチャンスと捉えられないだろうか?

僕は人生は修行だと思っていて、何かを学び、何かに氣付くための人生または生命。

僕らは何のために生まれ、何のために生きて、何処へ行くのだろう?

12,3歳の頃に湧くように現れたこの疑問が今も僕の生きる支えになっている。

 

 

ちょっと待って!

恐怖や心配、不安、苦しみを乗り越えるというか、受け入れるというか、穏やかなものに昇華させる事ができれば人生が真の穏やかに心静かに過ごせるんじゃない!?

もしも・・・

もし、この病気(濾胞性リンパ腫)が2015年に見つかっていなかったら、今頃は肝臓や腎臓や膵臓や脾臓などの二次的な機能障害が痛みとして現れその原因はリンパ腫瘍だったことを知らされ、入院をして、先ほど書いたような闘病生活を送っていたかも知れない。或いは既に他界しているかも知れない。

だから何でもない当たり前の一日一日が尊く感謝に輝いているのだ。

 

これでいいのだー。

な〜んてかっっこよく文章を締めたいのだけど、喉元過ぎればで感謝の気持ちは薄らいできちゃうんだよなぁ。。。

これもまた愛すべき自分なのだ。

これでいいのだー。

思い通りにならないのが人生なのだ〜。

雲に聞き、風に聞く。 2022.01.16 記す。

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