2023僕のお母さん

日常ブログ

僕のお母さん

2023年二つの大きな出来事。其の2

高齢者は冒険者

ロマンスカーは特別な時間

毎年正月は家族3人集まります。「今年はどこかに行きたいね」なんて話していました。

春、久しぶりに家族で箱根へ行きました。旅行の目的はロマンスカーに乗ることで、お昼は車内で販売しているお弁当。箱根の滞在時間はおよそ2時間、温泉入ってロマンスカーで蜻蛉返り。母曰く「家で寝る方が楽だもの」

いざ箱根

母は車椅子を使用する事にためらいがありました。理由は人に迷惑をかけることが心苦しいことと車椅子の通る道が凸凹でもし車椅子で転んだら一人で立ち上がれないし母の面倒をみている姉は小柄なので負担が大きいこと等を母は氣にかけています。

「車椅子を活用する事で行きたい所に行けるし食べたいものも食べられるし、家族旅行だよ」って説得して今回の旅行となりました。母が老舗ホテルのカレーが美味しいよって言うことでロマンスカーでカレーを食べに行くというかなり贅沢な旅。

車椅子旅

車椅子で電車に乗るにはいろんなことを事前に調べておかないと。電車の乗り継ぎ、エレベーターの位置、改札口を車椅子が通れるか、ロマンスカーに乗車する時に手伝ってもらう人の手配、箱根駅にも連絡してもらい、いろんな人の手を借りてやっと乗れます。駅員さんに乗車時間になったら乗車するドアまで渡板を持ってきてもらって車椅子を押してもらってようやく乗車です。

出入口に近い席を確保したのですが座席に座るのも一苦労。車椅子が座席の間を通れない。わずか100センチ位の距離を母は色んなものに捕まりながら僕たちは母を支えながらどうにかこうにかやっと母を座らせる事が出来ました。座席の背もたれの後ろに車椅子を置ける隙間があったので一安心。座ってしまえば天下のロマンスカー、快適な旅の始まりです。車椅子用の座席があることを後から知ったのですが、普通の椅子に座りたいものね。

母は耳が少し遠いけれど頭はしっかりしてるから色んなことを話します。若い頃の出来事、社会情勢、将来のことなど話題に事欠きません。

母が話してくれる戦前,戦中,戦後の話が特に好きです。生きた歴史、自由と平和の有り難さが実感できるお話です。

あっという間の一時間半。ロマンスカーはゆっくりとホームへ。事前に連絡してもらっていたので駅員さんが僕たちを待ち構えていてくれました。

箱根に到着して先ずしたことは駅員さんを捕まえて帰りの車椅子補助の手配と新宿駅到着後の手配をしてもらいました。気持ちよく対応してくれたので安心しました。

車椅子と人混み

改札を出てタクシー乗り場に行こうとしたのですが近くのエレベーターが点検中。遠くのエレベーターまで遠回りしなければ下の通りに降りられず、それでも箱根の雰囲気に3人とも気分は軽やかでした。

商店街をぬけてタクシー乗り場へ行く途中で感じた事は、殆ど人が周りを気にしていないですね。スマホを覗いていたり連れの人と話しながら2列で歩いていたり、車椅子の僕らが周りに氣を配りながら人の間を邪魔にならないようにアーケードを抜けていきました。

自分の半径1.5mくらいは常に意識に上げていたいと思いますね。

歴史感じるホテル

タクシー乗るまで氣を揉みましたがなんとか予約の15分前にホテルに着きました。ホテルの従業員の方々はみんな明るく大きな声で挨拶してくれて、母を乗せた車椅子を姉が押して赤いふかふかな絨毯の道をゆっくり歩きます。歴史を感じさせるスーッとした空気の静かな館内です。

館内は広くて迷子になりそうなくらいでエレベーターを乗り継いでレストランにたどり着きました。レストラン内は落ち着いた雰囲気。和洋折衷のインテリアは素敵で心まで贅沢をさせてもらいました。窓の外は眩しい新緑と鳥の歌声。

「三人で来れて良かったね」

「お母さん大冒険だったね」

などと朗らかに家族の笑顔が嬉しかったです。

母と僕はカレーが姉はサンドイッチ。ウエイターが「このホテルは海外のお客様が多いのでフォークのご用意ですがスプーンが良ければお持ちします」

外国の人はカレーをフォークで食べるんだ… 僕はスプーンをお願いしました。母が頼んだ蟹のカレーは絶品!

母は頭も内臓も元氣、母の様に元氣に生きなくっちゃ。

お店の雰囲気とカレーの味と香りに時間を忘れて、ふと時計を見たらすぐにタクシーを呼ばないといけない時間。

車椅子の冒険は時間に余裕を見ておかねば。

老いてなお楽し

ホテルの人にタクシーを呼んでもらい、タクシー乗り場までの行き方を教えてもらって母を乗せた車椅子を姉が押して僕は出口へと二人を案内しました。迷路のような豪華なホテル内をキョロキョロしながらタクシー乗り場に到着。

運転手さんの力も借りて母も頑張ってやっとの思いでタクシーに乗り込み、新緑を眺めながら

「美味しかったね」

「楽しかったね」

「また来ようね」などと喜びを語り合い名残惜しいホテルを後にしました。

老人は廃品じゃない

僕の曲に『老人は廃品じゃない』という曲があります。2023.12.09のVTRから抜粋。

音量に気をつけて下さいね。

母の想い

湯本駅に着いてエレベーターの場所を教えてもらい車椅子を下ろして母を座らせました。母は殆ど自分の力でタクシーから車椅子へ乗り移りました。母は人に頼るのを良しとしない人でした。

母は人に迷惑をかけたくない思いが強いのです。その頑張りが97年を支えていたのかもしれないです。

歩道の段差を乗り越えエレベーターに乗り込み外国人旅行者の人混みを縫って改札を抜け再びエレベーターに乗り込みホームまでたどり着く。改札を通る時に駅員さんに車椅子のサポートを頼みました。

沢山の人の手を借りてロマンスカーに乗り込むことができました。

おかげさま

車椅子の母と旅をして今までと全く違う景色を味わいました。無関心な人も居れば手を差し伸べてくれる人も居る。元気な人や健常者を中心とした街づくり、それが社会なんだなぁと身を持って実感しました。

母は僕に大きなプレゼントをくれました。人はどう生きるかを

母とデパートに行った時、母が「まるで宝石箱の中に居るみたいだねぇ」とお店をキョロキョロしていたことを思い出しました。大正、昭和、平成、令和と母の人生は山あり谷あり。でも苦労の先には喜びがいっぱい輝いていたに違いないです。何故なら僕の人生が喜びでいっぱいだからです。

母がよく言っていた言葉。

「オレがオレがの我を捨てておカゲおカゲのげで暮らせ」

「我を捨ててお陰様で日々暮らしなさい」

別れ

どんな人でもどんな状況下でも穏やかで安らかな最期が迎えられますようにと切に願います。平和な世の中でありますように

7月、母の長くて短い97年の人生に幕が降りました。大正.昭和.平成.令和.を生き抜いたたくましく慈悲深い母でした。

 

ご苦労様でした。そしてありがとう

旅立ちの準備

うちの家族は誰が先に逝っても困らないようにと色んなパターンを想定して何度も何度もその時のことを話し合っていました。葬儀社も決めてありました。父の時と同様、今回も諸々スムーズに行えました。

父と母は元気なうちに二人で斎場を見学していました。

父が「ここで焼かれるんだな」と母と話していました。

正月は冥土の旅の一里塚

みんなが集まるとシミュレーションです。母が先に亡くなった場合、姉が先に亡くなった場合、僕が先に亡くなった場合、何度もいろんな状況を想定して話し合います。

「正月早々こんな話ができるなんて幸せだね」ってみんなで笑いながらお雑煮を食べます。

母は「私が最後一人残ったら嫌だから誠ちゃん長生きしてよね」って僕によく言っていました。

ありがとう

僕は母に手紙を書きました。棺の中で静かに穏やかに横になっている母に向かって声を出してその手紙を読んで母の顔の横に手紙を置きました。姉は母が好きだったタオルケットを母にかけていました。

まだ温かな母の骨を素手で触らせてもらいました。しっかりした骨でした。大切な人の骨を肌身離さず持っている人の気持ちが少しだけわかった氣がしました。

斎場の人が教えてくれました。ノドボトケという骨は喉の骨ではないそうで、どこの骨って言ってたかしら?

僕が焼かれたら金属の人口股関節が他の骨と一緒に出てくるんだな・・・

菩提寺には事後報告。電話をして儀式の日程を決めました。

儀式の日は住職と姉と僕の3人だけの静かな法要の後、石屋さんが母の骨が入った白い壺をお墓に納めてくれました。墓石の下を覗いたら一つだけ骨壷が真新しかったです。うちのお寺はかなり古くて、でもまだ4つは入りそうな広さでした。

4人家族が2人家族になりました。

全て良し

後悔は安らかな環境の中で母を看取ることができなかったこと。新型コロナの影響で病院に任せっきりにしてしまったこと。母の体調不良を少しでも改善できるようにと病院を頼りにしてしまったことがそれがかえって母の死を早めてしまったように思えてならなくて。でも誰かを責めても始まらないしそんな悔いを背負いながら生きることを母は喜ばないでしょう。

全てはその様に動いているそう思うのです。

「死んでも死なない」

朝昼晩とお仏壇に手を合わせている母の姿を小さい頃から見て育ってきました。仏様というよりはご先祖様に対して手を合わせているようでした。あるいはご先祖様を通して遥か遠くの世界に向かって手を合わせているようにも思います。

「死んだらどうなるんだろうね?」「どんなところだろうね?」答えの出ない会話をしばしばしていました。

父の時もそうだったけど母の時も僕は涙を流すことはありませんでした。

もちろん五感で感じられないその寂しさはありますが、それ以上になんて言うか「死んでも死なない」そんな感覚があるんです。

父のことを少し

父は戦争に行く時に誰かが持たせてくれたお守りをドブに捨てて出兵しました。「こんなもので命が守られるかー」。おそらく父はその当時のご時世に対して虚しさ悔しさみたいなものがあったんだと思います。

そんな父が晩年僕が唱えた般若心経のテープをよく聞いていました。父は穏やかなリベラルな人でした。

ひっとべー

母の死は僕に実りある人生を与えてくれたと思っています。その節目としてこのブログを書きました。

良いも悪いもありません。全てが人生を豊かにより良く軽やかに生きるための出来事だと思います。

現在は知らない街で一人毎日軽やかに過ごさせてもらっています。有難いことです。

・エネルギーは自分が出した矢印に向かうんですね。

母が亡くなって半年、初めて母の夢を見ました。母は大声で笑っているんです。

2024年は『ひっとべー!』

最後まで読んでくださり有り難うございました。

軽やかに自分の人生を歩んでいけますように・・・☯️

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