生と死の境 真実に触れて

日常ブログ

走り書きが出てきた。母が亡くなってすぐに書いたようだ。その時の想いを記憶,記録として残しておこうと思う。そのままを残す。

生と死の境

7月3日 2023年 お母さんが死んだ お母さんが死んだんだ

なんか言えよ なんか言ってくれよ

わからなくなったんだ 生と死の境が

死に顔に話しかける

有り難う ご苦労様 楽になったね

死に顔を見てわからなくなったんだ 生と死の境が

お母さんが死んだ でも お母さん死んだの?

じゃ 僕と一緒に居る人は誰?

僕は生きている? 本当に生きている?

わからないんだ 生と死の境が

悲しくないんだ ただ見えてる全てがぼんやりして

つかめないんだ

真実に触れて

僕はあの時知ったんだ。そして今それを実感している。

物質を絶え間なく通り過ぎているエネルギーがある。

五感で感じている世界だけが唯一の世界じゃない。

中学の時に湧いてきた疑問「僕は誰?僕はどこへ行くの?なんのために生きてるの?」

僕は今その答えに触れている。

コメント

  1. amita より:

    生と死はひと続き、切り離して考える必要は無いと思います。
    一連の流れ、必然、ずっとずっと繋がっているのでしょう。
    例えば話が出来なくなってしまったでしょう?
    でもね、それは音声に執着しているからなのかもしれません。
    心で話してください、必ず届くと思いますよ。

    • pianoemma pianoemma より:

      コメント有り難うございました。全くその通りですね。ずっと繋がっていますね。有り難うございます。

  2. amita より:

    お久しぶりです。
    元気にされていますか?
    我々がなんとか自分たちに合理的に何かを理解しょうとすると理解できることは何もないと思います。
    ただ自分たちに都合良く解釈するだけです。
    人類が物を作りはじめた瞬間に合理性はすべて消えたのかなと思います。
    人類が合理性を求めた時に合理性はなくなった?
    この世で今までのように生きる限り人間にとって合理性はなにも無いという事かな。
    自然の法則にしたがって生きないかぎり合理的には共存できないのかも。
    食物連鎖の頂点に居座るかぎり自分たちの正当性を求め続けるかぎり。
    と、思いました。
    じゃ、どうするのってことですよね  むずかしい

    • pianoemma pianoemma より:

      amitaさんありがとうございます。お陰さまで元気です。コメントもありがとうございました。…難しいですね…

  3. amita より:

    唯一合理的に考えれば。

  4. amita より:

    お元気で何よりです。
    若い頃こんな事がありました。
    5~6年くらい吐き気が止まらず食事を取るのもしんどかった時がありました。
    通りで人とすれちがいそうになるだけで吐き気が襲ってくるのです。
    そんな日々が続いたある日、もういい、街中で吐こうがどうなろうがどうでもいいって思った瞬間があったのです。
    その時から徐々にすべてが変化していきました。
    発想の転換がおきるときが来て回復に向かっていきました。
    つまり、そういう事なのだと思います。
    その考え方は良いことの1つだとつくずく思いました。
    thank you! professer!!!

タイトルとURLをコピーしました