哲学しようよ
ピアノえんまです。
僕が死について感じていることを書こうと思います。僕の病気は完治しないらしいです。当然のように健康な人より死を考えない訳にはいかなくて。
死について語ることを避ける方もいるようですね。不吉だと。
僕はまだ元気なうちに死ぬことを考えられてありがたいなって思っているんですよ。
「いや、そんなこと考えなくておもしろおかしく毎日を暮せばいいじゃないか」
って云う人もいるかもしれないけど僕はなんかもったいないような気がして。
だってポックリ逝ければいいけれど大概は体のどこかが悪くなって辛くて入院して痛い苦しいで一日が過ぎる。大切な家族とは身体のどこが痛いとか苦しいとかそんな会話だけで終わっちゃう。
なんかもったいなくありません?
せっかく縁あって出会ったんだからその時間を大切にしようよって思うんですがね。人生の深い話なんて誰とでもできるものではないでしょ。やっぱり大切な人だから話せるんであって。簡単に言えば哲学しようよって思うんですね。
哲学なんて聞くと難しい面倒くさいとかってなっちゃうかもしれないけど要するに
疑問を持とうよ。想像しようよ。そしてそれを誰かと分かち合おうよって思うんですね。
僕は中学の頃に「僕は誰だ?」「なんのために生きているんだ?」「どこから来てどこへ行くんだ?」そんな疑問がふと湧き上がってきました。おそらくこれは誰もが持っている素朴な疑問だと思うんですが。人って凄いなと思うのはこの疑問を誰からも教わっていないと云うことです。自分の心の叫びと云うか。みんなが持ってる疑問。不思議と思いません?
哲学も数学も化学も美術も音楽もみんなこの「私は誰?」「ここは何処?」こんな素朴な疑問から始まったんですってね。
僕は考えるんですね。面倒さいやつですよ。でもお陰で入院中は退屈しなかった。考える時間はいっぱいあったから。窓から小さな空眺めながら。贅沢な時間でした。いろんなこと考えました。死についても考えましたね。
当然誰にでも訪れるもの
死という言葉は不吉だとか怖いとか口にしちゃいけない触れちゃいけないもののように思う人もいるようですね。考えの及ばない届かない途方もない見えない物には恐怖を覚えるからかなぁ。
死を恐怖と捉えると生きるのが辛くなりません?「あーっもうじき恐ろしい怖い死が迫ってくるんだぁ」と思ったらなんか嫌じゃないです?
僕は死についてある種の憧れと云うか、希望すら持っています。その時になったら僕が抱えている疑問の答え合わせができるんじゃないかって。誤解しないでくださいね、決して自死を肯定しているわけではないので。
死ぬことを考えていると生きることをいっぱい考えるんですね。今までどうやって生きてきたか、これからどうやって生きて行こうか。To Do List なんて作っちゃったりして。今まで考えもしなかったことが浮かんできてね。病気になったことで死を考えることによって素直になれたのかもしれない。
死について誰かと話し合ってみたらいかがでしょう?新たな楽しく生きるヒントが見つかるかもしれない。それも充実した生が。
何でもない
最近よく散歩します。人工股関節にしたお陰でリハビリがてらのんびり歩いています。写真撮ったりして。空を見たり木々を見たり草花を見たり雑草を見たり。それらを見ているとある答えが浮かんできました。これは長年の疑問である「私は誰?」と言うことです。誰もが持っている素直な疑問ですね。「私は誰?」おそらくホモサピエンスはこの疑問から逃れられないのかな?って。。。て云うかその疑問そのものがホモサピエンスなのかもしれないです。
その答えをね見つけた気がしていて。散歩して空や草木を見ているとそれがね
「私は何でもない」
と言う答えが聞こえてきます。
「私は何でもない」それが今の僕のベストアンサーです。
ほんとはねこの答えはね20年くらい前に浮かんだ答えなのですがなんか実感がなくて忘れていました。それが最近ふと降りてきて頭に電球がつきました💡
無に帰る
死んでみてわかることもあるかと思っていて。死んでみたらあーそうだったのかと新たな自分を発見するかもしれないし。真理というものがわかるかもしれない。それが楽しみなところもあるんですが、でも、死んだらそこでおしまいだとも思うんですよね。ハイ!それまでよ!
「ハイ!それまでよ」いいなぁ。。。クレイジーキャッツの曲は名言が多いですね。「わかっちゃいるけどやめられない」いいなぁ。。。
「2001年宇宙の旅」と云う映画を見ました?これが15歳位の僕にはとても衝撃的でした。当時は意味はよくわかりませんでしたが感覚的に直感的に感動したのです。映像の美しさもありますが胸に迫ってくるものがありました。
今になるとあの宇宙に浮かぶ胎児の映像がとても素晴らしく希望のようにも見えてきます。
無と云うのは何もないと云うことではないようですね。
最期まで命をポジティブに運ぶ
僕たちは命と言うものを最後の最後まで運ばなければいけない。僕はそのように思っていて。生き切った後に素晴らしい「何か」が待っている。そう思うんだけどなぁ。。。
でもでもね、どんな生き方、死に方しても最期はみんな同じゴールかもしれない。
血液のガンを持っている僕は、死ぬまで元気に生きる。たとえ病におかされても元気に生きる(すでにおかされているか!)ポジティブに生きる。明るく生きる。
僕は今いただいてる健康に感謝しています。
死ぬ事は怖くないけど痛みや苦しみ体の苦痛、それは恐ろしい。怖い。だから死ぬならさっさと死にたいって言う願いが時々頭をもたげることもある。
死を考えることは生を考えること
ある人が以前「えんまさんは美しく生きてるから」と言ってくれたことがありました。どういう意味でそう言ってくれたのか分かりませんが、それから「美しく生きる」という言葉がキーワードのようになっています。
死ぬことを考える事は生きることを考えること
余談ですが、死は身近な人にしか起こらないんですね。
死=生、生=死
うちの家族は日常の会話の中で「お母さんが死んだらさぁ」とか「お姉ちゃんが死んだらさぁ」とか「僕が死んだらさぁ」とか当たり前のように食事しながら普通に会話しています。それがとてもありがたい。父が他界してから、そして僕が悪性リンパ腫の告知を受けてからのことです。
ある時、母が「死んだらどうなっちゃうんだろうね」って聞くから
お父さんに聞いてみたらって言ったら後日、母が「お父さんに聞いたら黙って手を大きく広げてた」って。。。
この間「再発したかも知れない」と家族に話した時、(途中は省きますが)「私は不幸だよ」って母は言っていました。たぶん親より先に死ぬなんてって云うことかなと思いますが。後に「諦めないでね」とも言ってくれました。
生きることは苦しみなり だからこそ・・・
死について僕の思いを書きましたが僕には欲望があります。闘病中にいっぱいの欲望が湧き出てきました。
一番は路傍の石で死にたくないと言うことです。矛盾していますね。でもそれが今の私なんですね。
・とびきりべっぴん女性とイチャイチャしたい。
・とびきり豪華な自動車を所有したい。
・とびきり美味しいお寿司を食べたい。
・とびきり上等な焼肉を食べたい
・とびきりリッチなタワーマンに住みたい。
・名曲を残したい。
・有名になりたい。
・死ぬ時は大好きな人に看取ってもらいたい。
今まで考えたこともなかったけど、きっとふたをしてきたのかもしれない。
生きる欲望は限りないですね。
生きることは苦しみなり
ですね!
だからこそ明るく生きる
また今日も雑草を眺めながら生と死をそして自分を見つめて歩こうかな。。。
コメント
思うに生き物は必ず死ぬ、この世の全ての生き物は。どんな死に方かは分からない。人の事だけを見ていたら何か理不尽に思うけど、生き物すべての命を見たら平等にな気がする。幸せな死に方なんて人が勝手に思い描いたものだと思う。野原で何気なく人に踏みつけられた花、綺麗だと摘まれていった花、花の立場で思えばどちらも不幸かも知れません。人は人の価値観からは離れる事は難しい事ですが、えんまさんならきっと理解できるのだろうな。生かされてください。本当の価値を教えてくださいね。
amitaさま コメントありがとうございました。 読んでいてまた少し自分を深掘りできた気がします。
おっしゃる通り命はみんな平等だと思いますね。でも他の側からそれを見つめるのは難しいですね。
命は見えないから不安なのかもしれません。だからつい人と比べてしまう。そして相対的な幸福を掴んでしまう。そしてそれはまた不安に変わってしまう。キリがないですね。
自分の中に絶対的な幸福を探す。 人生修行。 修行は楽しまなくっちゃ。って思っています。ありがとうございました。
えんまの履歴書の続き!楽しみにしています。
えんまの履歴書の続き楽しみにしてくれてありがとうございます。すみません。もう少しお待ちください。よろしくお願いいたします。
昔の人は有るか無いかわからない浄土というものをたてて人々に安らぎを与えようとしていました。切実な問題だったのだと思います。実は私はそれを今も信じているのです。俱会一処という言葉が経典の中にあります。いずれ同じ場所で再会できるという意味です。もし私が先に逝ったとしても、えんまさんが先に逝ったとしても、いつかそこでお会いして色々話したいですね。それまで一杯、一杯生きて下さい!
amitaさま コメントありがとうございました。あちらでゆっくりお話しする機会があると思います。それまではお互いに健やかに生き切りましょうね!