終戦9年後東京三鷹に生まれる。
朝8時ごろ畳の上でお産婆さんに取り上げられる。
その時スズメがその部屋に入ってきたそうだ。それを聞いてなんだか嬉しかった。
2歳くらいの時に家族で映画「ウエストサイド物語」を観に行ったそうで、劇中の「Cool」という曲が気に入ったらしくあの有名な指パッチンの振りを真似していたそうだ。今観てもこの映画は音楽もダンスもいかしてる。
はじめてのはっきりした記憶は2歳半。部屋の中を走り回り、座布団につまずいてグラグラお湯が沸いている火鉢の淵に顎を強打。その恐怖というか驚きとショックがはじめての記憶。
僕はヒキツケをおこす癖があったので泣く寸前、息を吸ったと同時に呼吸は止まり顔はみるみると紫色に変わる。暫くしてぎゃーっと泣き始める。とても育て難かったと母。
3歳ごろから姉がピアノを習っていたのでピアノで音当て遊びなどをしてピアノに親しんだ。その当時家にピアノがあるなんて裕福に思えるかもしれないがそんなことはなく父がお昼は公園の水でお腹を満たし一所懸命働いて買ってくれたピアノ。
5歳になりピアノのお稽古に通い始めた。幼稚園にも入学するのだが、園に行く時間になると僕は塞ぎ込み、母がどうしたのと聞くと行きたくないとべそをかいた。幼稚園中退。それでも先生が話してくれた「みんな仲良くしましょうね」は今でも覚えている。
6歳になり小学生になった。初めのうちは姉に連れられて登校するのだがあまり行かなかったように思う。なんとか通えるようになったが小学校の楽しい記憶は殆どない。
当時のあだ名はエンブー。そして赤ブタ。太っていて赤面対人恐怖症だったためだ。先生に刺されると周りはいっぺんに白黒の世界になってポーッと熱くなって顔は真っ赤になった。それで赤ブタ。ほかにもあだ名があった。エタブー。授業で士農工商エタヒニンということを教わりそれからエタブーというあだ名になった。それでも時々遊びに誘ってくれるが「ピアノのお稽古なの」というと「男のくせに・・・」と悪口を言われた。楽譜の入ったカバンを持って歩くのが嫌だった。左利きもその当時はからかう好材料となった。デパートのお好み食堂でご飯を食べる時は箸を使わないで食べられるメニューを頼んだ。「あの子ギッチョよ」そんな大人の声が胸に響いた。寂しくて悪いことをしているみたいだった。
12歳になり中学生になった。ピアノのお稽古を母はやっとやめさせてくれた。だが僕を救ってくれて支えてくれたのはピアノだった。何も取り柄もない。勉強も苦手。運動も苦手。唯一音楽の授業の前10分間だけが生きてて良いんだと実感できる時間だった。誰よりも早く音楽室へ行きグランドピアノの前に座りその頃の流行り歌を弾く。ピアノの周りに学友たちが集まる。彼らのリクエストに答えてピアノを弾く。生きてる実感!があった。
2年生くらいから素朴な疑問がお腹の奥から湧き出した。「僕は誰だろう?」「僕はどこから来てどこへ行くんだろう?」「僕は何のために生きているんだろう?」その疑問はその後の僕の人生の中心にいつもあった。
当時はギターブーム。ギターの構造がわかればコードが弾けた。そこだけは学友から一目置かれた。フォークギターを買ってもらい、バンドを作り誰かの家でレコードを聴いたり流行り歌を演奏したりした。髪の毛の赤い不良の先輩から呼びだされたこともあった。恐々彼らのたむろしている家に行った。ギターを教えろと言う。調弦の仕方、簡単なコードの押さえ方などを伝えた。そこにはドラムセットもギターもベースもアンプもあった。なんじゃこりゃー!僕が洋楽に目覚めたのはそんな頃だった。
「芸は身を助く」
担任の先生が学校を紹介してくれた。
15歳 高校生になった。音楽科に入学。
つづく